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「感謝」がもたらす副次的効果の期待 [心理]

 「感謝」の心が自然に生まれる機会に巡り合うことは、少なくなったと思うことがある。当たり前のことと感じると、「有難い」と思うことがある意味では、難しい。実は「感謝」の意識には、その意識状態がもたらす副次的効果がある。しかし、その副次的効果をねらっていては、感謝の心から遠ざかるという矛盾に直面する。そこで、今改めてこの言葉を振り返ってみた。


タスキメシ (小学館文庫)

タスキメシ (小学館文庫)

  • 作者: 額賀 澪
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/11/06
  • メディア: 文庫
タスキメシ 箱根

タスキメシ 箱根

  • 作者: 額賀 澪
  • 出版社/メーカー: 小学館
  • 発売日: 2019/11/06
  • メディア: 単行本
もう何年前になるだろう。正月2日3日に開催される箱根駅伝で、とある大学が所属部員の不祥事で出場機会を危ぶまれた時があった。スポーツの世界では、そのような不祥事があるといかに強豪校でも一度は、参加を自粛する検討を行う。もっともその時は、監督が責任を取ってお辞めになり、結果的にその大学は、コーチが監督代行として昇格し出場することができた。本来なら走ることができない中で走ることを許されたことに「感謝」の走りという言葉が参加時のキーワードになった。勿論、不祥事を起こしたのは、たった一人の偶然いた学生であり、監督のせいでもないし、真面目に日々練習に取り組んでいる他の選手達でもない。しかしながら、本来oneteamを目指す部員の中でたった一人でも法に背く考えが行動として具現化されれば、それは社会的な制裁を受けることとなる。偶然でも当該部員の一人の人にそのような行為が生じたならば、部員全体が厳しく評価される。監督は人格者で知られた方でもあり、自身も含めて誰も悪い人だと評価する人はいなかった。しかし、その監督は、選手達を年に一度の機会を走らせるために辞任をした。その結果、東京―箱根間の道を選手達は走ることができた。

 今では、当然のように「戦国駅伝」と言われるが、各チーム戦々恐々とする中で、その大学には救世主が現れた。それまでは、シード権争いをしていたが、ある区間で駆け上り往路で逆転し、復路でも他の有力大学選手との一騎打ちで、復路10区間で一秒を削る闘いを制し優勝した。当時誰が優勝を予想しただろう。その時、アナウンサーの言葉から繰り返されたのは、先だっての不祥事から走ることができるようになった経緯を示す「感謝の走り」という言葉だった。ここで顧みるのは、勝負を決める決定的区間で救世主が勝負を決定づける走りが可能になると、結果的に他の大学を抑えて優勝に導くことができるという事実だった。その後、その大学は、一人の救世主の走りが契機となり、当然のように優勝することができるようになった。優勝ができなくとも上位に入賞することができるようになった。そしてその救世主を目指して新たな新入生が入学するようになった。このように襷は引き継がれていく。

 ここで本稿のテーマである「感謝」というキーワードを振り返る。当初は、本来走ることが許されない状況の中で走る機会を得た時「感謝」の走りという意識が構成メンバーに浸透し、走ることができた。それが、一年二年と年々引き継がれていくと、伝統として引き継がれて継承されていく。当然のように優勝又は上位入賞の歴史が作られていく中で、ある時、その状態が当たり前と思うようになる。そうなると、当初「有難い」という意識が「当然」という意識に転化する時が訪れる。その「当然」という意識が構成員の中で常に占め、結果として顕れてくると、周囲からもそのような目で見られるようになる。しかしながら時は流れていく中で構成メンバーが更新される中、質的に変容をする時機が訪れるのも現実である。それは、他校との争いの中で相対的に他校の構成員の方が優位に立つことは当然ありうることだし、ある日突然結果が出なくなることがある。その結果上位入賞を常にしていた大学がある時、新興勢力に飲み込まれてしまい結果として、シード権争いから予選会に参戦するようになるケースもある。いつの間にか箱根の常連校から伝統校へ、そして古豪と呼ばれるが、参加機会が得らえなくなる大学もあると感じている。

 その中で構成員の意識で顕著に変わってくることは、「有難い」、「感謝」の走りを忘れ「当然」の走りとなってしまうことである。確かに「有難い」「感謝」を意識し続けることは、一定の結果を出し続けてしまうとむしろ難しくなるのが自然である。しかしながら「至極当然」という意識が全面に出て、「有難い=感謝」という感情が蔭に隠れ、忘れてしまうと、心理的にも異なる現象が生まれる傾向が強くなっていく。それでは、「至極当然」と「感謝」の違いは何をもたらすのだろう。

 指導者はもとより構成メンバーが「至極当然」と思えば、自分自身を含め周囲にも「至極当然」を量的にも質的にも求めるようになる。しかしその至極当然を求めることができるかといえば必ずしもそうではないことを省みる。心理学の言葉を用いて表現すると「要求水準」という言葉である。当然のように一定の水準をクリアすることができるようになれば人は、「もっと」と思い、これまでを上回る「要求水準」に基づく期待を自然と抱くようになる。確かにより上位レベルの要求水準を抱き、その要求水準に適った「目標」を実現することができるようになれば、或る意味では、「自己成長」した自分に出会うことができ、自己成長し獲得した結果から、周囲から、福利をもたらした一定の評価が得られると思われる。しかしながらその上位の要求水準に適った目標を常に、いついかなる時も達成できるかと言えばそれを保証するものは存在しない。保証するとすれば、例えば、箱根駅伝では、往路、復路とも完全優勝を遂げることだし、音楽の世界ではコンクールで優勝し続けることが必要となる。円熟味を増す一方で体力が落ちることもある。その結果、注意力が欠如する中で、一定の結果を導き出す集中力が続かなくなってしまう場合もある。

 ここで分岐点となるのは、自分(達)の現在の力を十分にアセスメント、評価することができずに、あたかも階段を3段5段と駆け上がり続ける等の無理を、自分にも周囲にも「至極当然」と求めることで、本来、順序立てて積み重ねる基礎の部分を積みあげるモチベーションを持続することが難しくなる意識が大半を占めてくる。その結果、それまでは、一切隙が見られなかった意識の中で、少しの綻びが生まれて、本来持続すべき基礎の構築から離れてくる。確かに一定の基礎力がある人は、「気合」で乗り切ることができるかもしれない。しかしながらその気合いは、ある日突然、続かなくなる時が来る。集団の中で気合いが相乗効果となり好結果を持続することも稀にあるが、しかしそれは未来永劫、何時までも続くことは難しい。そのことを顧みることが必要である。「有難い」感謝の意識状態から、「至極当然」当たり前の意識に切り替わった時、これまで見えていたものが見えなくなる。そして前頭極脳波のα波が現れる弛緩集中状態から、何故当然できないのだろうという「怒り」や「不信」、学習性無力感がもたらす「諦め」が顕著となり、α波が減衰して、一定の目標を成し遂げる自身感や目標にたどり着こうとするモチベーションが保てなくなってしまう。科学的に検証されているとは言えない「至極当然」と「有難い=感謝」の連続性の中にある二つの異なる心理が、スポーツや音楽の世界での成果に限ることなく、実は大きな問題を生じさせる原因となっていると感じている。この観点は、連日新聞各紙、ニュース報道で騒がせている犯罪心理とその抑止、社会倫理規範の維持に通じてくる。文章が長くなるため、また折をみて別稿で記したいと思う。



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