人を傷つける子供の心理分析 [心理]
男子生徒が面識のない女子児童の首を刃物で傷つけるという事件が昨日報道された。
「人を殺すことに興味があった」とその生徒は答えた。女子児童は、生命は留めたが、そもそも「人を殺す」行為への認識、認容をして行った実行行為は、殺人罪(刑法199条)の正犯である。このニュースを聞いて罪もない女子児童が傷つけられたことに愕然となった。加えてこのような事件は自分の幼少期にあったのだろうかと顧みた。振り返るとここ数年、毎日のように人の生命を殺める事件報道が繰り返していると感じているのは自分だけだろうか。少なくとも幼少期には、このような頻度でニュース報道される事件があったとは記憶していない。
人の生命を殺めることに興味がある意識状態とはどのような状態であろう。通常の見識をたずさえた親であればもとより、教員からそのように興味を示す注意を喚起する指導を受ける訳がない。但し、最近では、そうも言えない事実があるかもしれない。しかしながら、そもそも刑法で規定されている犯罪であれば、その背景として、「人を殺してはいけない」という規範があるからである。その「◎〇をしてはいけない」という法規範をあえて超える自己決定して行動したために、違法、有責な行為と評価され、「過失」と比較して重い刑罰が下されるのである。
それだけに「人を殺める」という行為は、法的にも倫理的にも重篤な犯罪という行為なのである。しかしながら、児童の首を刃物で傷つけるという行為を行うには心理的にどのような意識状態になれば惹起されるのだろう。
まず第一に言えることは、規範意識の欠如である。その前提として言えることは、実行行為=構成要件に該当する行為の認識、認容する際には、その前提として、「〇〇してはならない」という規範に直面する。その規範を乗り超える行為に違法有責な法的評価が下される。特に人の体を傷つけ、死の結果発生を惹起することを認識認容しているならば、人を傷つけてはいけない、殺してはいけないという規範に直面した時、通常の人間であれば、何等かの痛みが伴う感覚が想起されるはずである。それにも関わらず、人の身体を傷つけたり、人を殺す行為の認識があれば、痛みを感じて人を傷つける行為はやめるということが、一般常識人の判断である。
それでは、昨日報道された少年の心理はどのようなものだったのであろう。少なくとも、刃物で人の身体(首)を傷つければ、痛いと想起されるだろうし、もし自分がされたらどうなるのだろうと想起することが通常である。しかしながら当該少年は、「人を殺すことに興味を持っている」ということだけで、規範に直面してはいなかっただろうし、仮に規範に直面していても、感覚が麻痺し、言わば、解離状態になっていたのではないかと思う。
それでは、その犯罪を犯した子供の保護者(父母)はどのような意識状態であるのか。仮に少年と同様の意識状態であるとすると、実行行為を認識しても、規範に直面できない意識状態が世代間伝達されている可能性がある。その規範に直面できない言わば、感情認知困難意識の世代間伝達が今日の最も重大な問題なのだろうと思う。それでは、なぜそのように感情認知困難の状態に陥るのか、そして何故、そのような意識が世代間伝達するのか別稿での記述を待つことにする。
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