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臨床心理技法への批判への対応 [心理]

SNS上で時折目にするのは、臨床心理技法に対する批判、特に批判の対象を体験でとらえた経験のない方々によるエビデンスのない会話に見られる批判である。
SNS特にFacebookでとある方が意見を述べた際に、それに対して賛同する会話を目にする。それがあたかも特定の人の技法を想定して批判をしている内容がある。特に一方の方は名のある立場の方に対して、それを右に倣えという姿勢で賛同しているように見受けられるものもある。恰もその方の投稿をフォローしている人に分からせるような口調であることが分かる。批判をされていると感じた方は自分の技法を否定されている気持ちがして、気分が宜しくないだろう。それは恰も、子供の友達との間の会話にあるような噂話で、それを自分のことを感じた方は、いじめを認知してしまうかもしれない内容である。

 仮に自分の主に用いる技法を批判されたのであれば、それ相応の根拠があれば傾聴に値する。いかなる技法でも完全なものはないと解すれば、自分の技法の弱点を理解し補う配慮をする必要がある。特に精神科クリニックや学生相談も含めて何十年も自らの用いる技法と付き合っていれば、その試みは、論文や著作で執筆する段階でもその弱点は認識しているはずであるし、実際の臨床場面で個別のクライエントに適応する際に個別の配慮を行う必要があるのが自然である。それが百人百様の人としてのクライエントに向き合う上での常識ではないかと思う。

 クライエントに向き合う心理技法、臨床心理技法は、概ね教育段階で解説する場合と、臨床の現場で応用する場合とは異なる。前者については、或る程度誰の目でも分かるように客観化して構造化する工夫が必要である。何故ならば、技法を学ぶ心理臨床教育の受け手が理解できないと教育は成り立たないからである。加えて、一定の領域で適用できるための根拠が必要である。即ちエビデンスである。自身は生理学的な根拠に至る説明が必要と考え、脳波計をはじめ様々な形を通じて検証してきた。それは観察、傾聴、確認、共感といった基本姿勢にも適用される。特に共感という基本姿勢を具体的に展開するためには、技法として構造化されている必要がある。それに対して、やさしさだとか、ぬくもりだとか、芸術といった言葉を用いて批判する方もおられた。しかしながら、教育や福祉ばかりではなく医療の分野で用いられる場合には、極力主観的な要素を脇に置く必要が出る場面もあると思う。何故ならAという人があの人の技法展開は美しいというのに対して、Bという人は普通のレベルだと評価する場合がある。Cという人の評価はあのCounselorの技法は、しなやかで美しく人としての配慮にも熱いという評価であったりする。しかし一番難しいのは、Cという人の技法展開は見事で、人への配慮に関する温かさもあるが、予後が悪いという評価である。もし予後が悪いといった評価が出てくると技法自体に問題があるし、反対に予後が良いとなると所謂アートとして複数の先生方からいかなる主観的な評価を受けていても技法の構造化が、クライエントの行動変容や自己成長に向けられた気づきや自己決定に無理なく導くために合理的に構造化されているという評価が下るはずである。何故同様に良好な結果が導かれるのかといえば、構造化された技法がエビデンスに基づいていて、様々な臨床経験を通じてCounselorが自分自身への批判と向き合いながら実践してきたからではないかと思う。

 このようにCounselorはそれぞれの歴史があるし自ら主に用いる諸技法を大切に向き合ってきた誇りもある。それに対してSNS上で一度も実際に会ったことがない方からその技法の真実性について言われる筋合いはなく、しかも子供達の間のみならず会社の中で大人の中でも聞かれる虐めにつながるエビデンスの裏付けのない噂話の形で、それに巻き込まれている方がおられるとすれば、それは誠に残念なことである。

 カウンセリングは科学的な根拠により裏付けられた技法により根拠づけられるが、臨床場面で展開する際は、アート(芸術)である。この言葉は、今から20年ほど前、自身が主に用いる技法を学んだ際に、先輩から既に幾度となく伝えられてきた。アートの部分を重んじるCounselorは、科学を軽んじる傾向があり、科学を重んじるCounselorは、アートの部分がおろそかになる危険をはらんでいる。しかしながら心理師という国家資格ができた今、クライエントの予後にまず重点を置く必要があると思う。アートの部分がおろそかになると批判される方は、先ず御自分の目の前のクライエントをエビデンスに基づく技法を以て、安全かつ確実に主訴解決に一歩でも近づく変容をもたらす技法を安定的に展開できているだろうか、そしてご自分のお弟子様は、安定的に技法展開されているだろうか等々について振り返る必要があるのではないかとお伝えしたい今日この頃である。

 尚、所謂、科目の読み替えの問題が難しい背景には、心理技法の構造化よりも、主観的評価の部分を重きに置く考え方を基軸としたカリキュラムに背景があるという見解があることを付言したい。自身はその臨床心理学を主軸とする国立大学(院)が(西に)存在したことを理由に当初読み替えが難しいと大学当局から説明を受けた。その大学院で学んだ方は、ほとんど読み替えられない先例があると言われた。しかしその説明に対して一つ一つ、自ら修得した科目およびカリキュラムを客観的に根拠づけていく中で半年かかったが読み替えが可能という判断を戴いた。法の下の平等(憲法14条)の原則のもと、自分の教育課程で代々学んだCounselorを心理師としてクライエントに向き合うために送り出そうという受け止めがあったからこそそのような当然の配慮が得られたのだと振り返る。他大学(院)で学んだ心理士(師)をSNS上で批判される前に身近な学生に受験資格を付与するために全力を作すのが教育者の役割ではないかと思う今日この頃である。

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